passions's blog

元塾講師・現家庭教師anデイトレーダーのおはなし

批判的であること

 ブログを書き始めて一週間も経ったのだけれど、おれは重要なことに気付いてしまいました。時間は大事なものを盗んでいきました、批判的な心を。以前のおれは違うと思ったら「違う」と言う人間でした。先のエントリで一回肯定すると書きましたが、一回肯定したら「違う」と言っていました。故に、意識して一回肯定していたのです。それがどうしたのでしょう。おれの批判的な心は、すっかりしおれてしまっています。なんか違うなーと思っても、そのあとでくる気持ちは「ま、いっか」です。

 なんでかなー。まあ恐らく年を取ったことが主な理由でしょう。年取ると人間丸くなるって言うじゃないですか。加えておれは10年以上にわたって「他人と敵対しないこと」を目指して振舞ってきました。そういうものの積み重ねが段々角張った部分を磨耗していったのでしょう。みんなそんなもんなのかも知れないけど。

 そうなると困るのがここの更新です。当初目論んでいた、色々なものに噛み付くブログにしようなんて計画が台無しです。

 

あぁどうしよっかなー。よく考えてみようと思います。

 

なんで政治家ってこんなこと言っちゃうの?馬鹿なの?

「さっさと上げてくれればいい」=北朝鮮ミサイルで藤村官房長官 (時事通信) - Yahoo!ニュース 「さっさと上げてくれればいい」=北朝鮮ミサイルで藤村官房長官 (時事通信) - Yahoo!ニュース

生徒の成績の成績を劇的に上げる、たったひとつの冴えたやりかた

 タイトルは嘘です。いや、成績を上げるのは嘘じゃないけど多分たったひとつじゃないしあんまり冴えてもないです。でもまあ、元塾講師・現家庭教師という立場から発言するにはそこそこ妥当性の高い内容だと思います。まあ、前置きはどうでもいいですね。読者もいないですし。

 その前に、おれの話をします。まず前提ですが、おれは空気が読めません。基本的に、みんなが「あっち行こうぜ」って言ってる時に「本当にあっちに行っていいんだろうか」と言い出す奴です。早い話がコミュ障です。これだと人付き合いが著しく困難になります。実際、著しく困難でした。おれが出会う人と敵対して仕方がないという事実に気が付いたのは中学2年の頃でした。中二病をこじらせてエヴァンゲリオンに乗れる年齢です。実際、当時はいじめられていました。一方で努力は報われる的な信仰を持っていたので欠点や短所は努力によってある程度、矯正できると考えていました。また、知らない事は大体本を読めば書いてある、という経験則を持っていました。結果、「敵を作らない方法」とか「人間関係がスムーズになる方法」とか、まあ多分PHPかなんかの本を買ってきて読むに至りました。
 これを読んで得た答えがたったひとつの冴えたやりかたになるわけですが、単純です。一回肯定します。「確かに」「そうだね」「分かる分かる」まあ肯定さえすればあとはなんでもいいです。一回肯定する以外にも色々書いてありましたが覚えてません。大事な話と儲かる話以外に興味はありません。知ってる?ありふれてる?うるせえ。きちんと実践できるようになるまでは1年弱かかりましたが、これをやったら驚くほど人間関係がうまくいくようになりました。どのくらい上手くいったかというと、中2の終わりにクラスみんなでメシを食いにいこう、もとい酒を飲もう、という企画に誘われるほどに上手くいきました。逆にこれをやってないと敵対してしょうがないです。やってない経験値だけは負けない自信があります。


 っで本題に入ります。応用します。一回肯定する、を生徒に大して使うときにはどうしたらいいか。 おれは基本的に頭から「間違ってる」とは言いません。頭からどころか、場合によっては最初から最後まで「間違ってる」とだけは言いません。だって嫌じゃないですか、間違ってるとか言われるの。言われる度に自信を失っていく感じがするじゃないですか。だから、どんなに珍妙な国語の記述や英語や数式を見てもホメるところを探します。記号問題であっても、です。対生徒のおれの口癖は「すばらしい」です。

 そもそもですね、塾で発言やら質問やらをするというのは非常に難易度が高いんです。間違っているかも知れない、バカだと思われたらどうしよう、他の人の邪魔にならないかな、なんて思いながら口を開くわけです。分からない、と言うのって大変なんです。『「わからない」という方法』いい本だったなあ。橋本治はあんま好きじゃないけど。だから発言をしただけで素晴らしいに決まってます。ゆえに、あらゆる質問は良い質問なんです。

 家庭教師の場合はおれ自身、家庭教師に教えてもらった経験がないのでなんとも言えませが、質問するのがハードルが高い傾向にはあるようです。まあこれは生徒との関係によるのでしょうが。あ、脱線しますがもちろん叱るときは叱りますよ。例えば教科書を学校に置いてきたとか、正当な理由がなく宿題をやっていないときとか。できないのは仕方がないがやらないのはダメでしょう、っていうのが基本的なスタンスです。テスト二日前なのに教科書置いてきてんじゃねーよ!バカタレが!
 話を戻して、とりあえず素晴らしいって言ったあと、直すところは「こうするともっと良いね」のカタチで直します。「ここがダメだね」という言い方はしません。普段のおれとはまるで別人のようです。 僅かな体験による経験則ですが、こっちの方が生徒の成績は伸びます。割と圧倒的な差があります。塾講師始めたばかりの時は全然わかってなくて苦労しました。

 

 でも問題があってこれって実験できないんですよね。同じ人を叱って育てたら、って結局妄想でしかあり得ないんです。子どもを集めて叱って育てるグループと褒めて育てるグループに分けて10年くらい、なんて考えることもありますがほとんど人体実験です。社会的に許されないでしょうね。『MONSTER』を思い出しました。

信念と思想

http://toyokeizai.net/articles/-/11766

http://toyokeizai.net/articles/-/11916

 開成と麻布の違いが分かりやすい記事です。調教する開成に対して放牧する麻布って感じでしょうか。開成の「生徒がよっぽど道を踏み外しそうにならない限り、こちらから手をだすことはありません。」に対して、麻布の「中には崖から落ちて痛い目を見る生徒もいますが、「自由と自律はコインの表裏の関係」ということを知ってもらおうと思っています。」が象徴的ですね。開成は道を踏み外すことはまず無いわけですが、麻布に子どもをやったら道を踏み外すことがありうるわけです。

 共通しているのは「うちの学生は優秀だ」という信念でしょうか。これは中学受験校では多くが持っている思想だと思います。あと「東大に行かせたいなら、よそ行った方がいいですよ」とか言っちゃうところ。

 っで、中学受験の問題といえば、難しさばかりが取り上げられるのですが、思想哲学の表示になっていることは、あまり知られていません。入試問題には明らかに偏向があります。それは「単純に優秀な」人間など存在しない事を示しています。

 例えば開成だったら、あのクソ簡単な国語とクソ難しい算数がミックスされて、算数に強い開成生の元になる小学生を選び出せるわけです。麻布はあの意味のわからない国語を出し続けることで、旧東大後期試験に異様に強かった、非常識な人間を輩出し続けるのでしょう。思想のファシズムとも言えます。おれはそのファシズムはいいんじゃないかと思っています。学校の哲学に合わない子どもを入れても仕方がないからです。

 僕は自分が思っていたほどは頭がよくなかった - しのごの録 僕は自分が思っていたほどは頭がよくなかった - しのごの録

 さて、これを読んで。おれの挫折は大学にはありません。中学にあります。世間では「毎年東大に合格者を出すような学校の連中は挫折なんて味わったことがないだろう」くらいのテンションで語られることも多々ありますが、とんでもない話です。9割方は絶望的なまでの挫折を中学高校のうちに味わうのが普通です。―世間一般ではどうだか知りません。そのためこれが上位私立特有の現象なのか、一般的な傾向なのかは分かりません―

 おれは元々、勉強しか取り柄の無い子どもでした。あ、多分いまもそうです。運動も音楽も書道もできない、そんな子どもでした。その代わりに、成績だけは良いという、それなのに、中学に入ったら、なんということでしょう、周りには成績が良い連中しかいないではないですか。あ、おれ天才じゃないんだね、と気付きます。その上、勉強だけできても何の意味もないとか授業初日で言われます。君たちは将来の世界を背負う人材だ。よって教養を身に付けなければならない、とか言われます。なるほどーと思います。

 っで、「私と彼を比較すれば、私は信念に欠如しており、彼は信念にあふれているということです。」ということになるのですが。「例えば過去に飛べるドアがあるなら私はそれを使うでしょう」ということになります。一万二千枚の特殊装甲がなくても信念があればなんでもできるのだと、なぜ分からなかったのか。端的に言っておれは、傷付くのが怖かったのです。努力しても失敗したらどうしようかと思っていたのです。失敗する前から後悔していたのです。頑張らないから出来ないんです、やれば出来るんです、って思いたかったのです。それが愚かなことだとは、当時のおれは全く分かっていませんでした。

 

 いまもしこのエントリを読んでいる、勉強なんてどうせ出来ないよ、なんていじけかけている中学生や高校生がいたら教えてあげたい。まだ始まったばかりだよ、と。